公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方
「それでも息子に継がせたい」 タビオ 越智 直正 会長
2017.02.20
著者:日経BPコンサルティング
帝王学なんてありません。代々が初代。わしのまねはすな
一代で靴下業界一の会社を育て上げた。
体力の限界を感じ社長の座を降りる決心をしたが、
靴下にかける情熱は息子へと受け継がれている。
2008年5月に長男の越智勝寛に社長の座を譲り、私は会長になりました。
健康上の理由で靴下を履かなければならんようになったからです。わしは16歳のときから靴下を履かんで生活してきた。履くようになったら、靴下屋の社長はもう務まらんと思っとったんです。
「靴下屋」などの靴下専門店を展開するタビオの創業者、越智直正会長のトレードマークは「素足にサンダル」だ。
60数年来の習慣で、出張以外は靴下を履かずに社長業を続けてきた。
「商品の仕上がり具合や履き心地をより正確に確かめるため」だという。素材、着脱の感じ、締めつけ感、肌合い……。そうした微妙な感触を把握するには、普段は裸足でいるのが一番、というのが越智会長の持論である。
医師から「足を冷やすのはよくない。せめて冬の間は靴下を履かんといかん」と言われましてな。わしは「嫌です」と言うたんですが、嫁はんがどうしても「履け」と言いまんのや。それでしぶしぶ履くようになったんよ。1月とか2月の寒い時期だけだけどね。
でも、それって、「靴下より命のほうが大事になってもうた」いうことでしょ。商売人は自分のところで売っとるものを、命より大切にせんといかんと違いますか。

靴下一筋60年という越智会長。「仕事というのは、あんたが選ぶのと違う。この仕事があんたを選んでいまんのや。わしはそれに45歳のとき、気が付いた。靴下がわしを選んだんです」
靴下には靴下屋の心が表れる
越智会長は1939年、愛媛県周布村(現・西条市)という瀬戸内海を臨む小さな村の農家に生まれた。
11人兄弟の末っ子で中学生の時に父親を亡くしたこともあり、進学せずにキング靴下鈴鹿商店という大阪の靴下問屋に丁稚奉公に出る。越智会長は、28歳で独立するまで、ここで商売の基本をたたき込まれた。
キング靴下の大将はそら、鬼みたいな人でした。わしはどつかれたり、蹴飛ばされたりしながら体で仕事を覚えましたわ。今となっては、こんな田舎のぼんくらをよう仕込んでくれたと思います。
「音楽家や絵描きが自分の思いを形にしたら楽譜や絵になる。靴下にも、靴下屋の心や精神が表れるんや」。よく大将からこう言われました。
当時、キング靴下のような中堅の卸は自社で商品を企画し、これを委託生産して小売りに卸すという商売をしていました。わしは大将の言葉で「自分も、いい商品を作りたい」と強く願うようになり、いい靴下があると聞けばどこへでも飛んで行くようになった。わしはいい靴下を世界の誰よりも一番見とると思うよ。それだけは自信がある。裸足で生活するようになったのもこの頃からです。
13年間の奉公を経て68年3月、越智会長は靴下卸売業「ダンソックス」を創業した。以来、安価な中国製品が国内に流入する中、国産靴下にこだわり続けている。
工場から販売店まで一気通貫で生産、販売、在庫を管理する体制を同業他社に先駆けて構築し、ムダをなくすことで品質を高めながら価格を抑えた。この値頃感が消費者の支持を集め、事業を拡大。現在では、売上高166億円(2016年2月期連結)で、全国に289店舗(16年12月末現在)を構える。越智会長は仕事漬けの毎日で、勝寛氏と接する時間は昔からほとんどなかったという。
〝家族サービス〞なんてやっている暇がありまっかいな。私が初めて家族でハイキングに行ったのは41歳のとき。それまで一緒に遠出したことなんか一度だってありませんでした。
勝寛は普通の子やったよ。今でも普通だと思う。でも、音楽に凝ってね。途中、その道を志した時期もありました。大学を辞めてしまい、アルバイトしながら太鼓(編集部注:ドラムのこと)を買うたりしていましたよ。
ただ、止めませんでしたわ。
「25歳まではええよ。そこまでやって食えんかったら、(会社を)ちゃんとやれよ」と言っていました。
一度、演奏を車の中で聞かせてもらったことがありましたが、運転中だったら事故を起こしそうな曲でね。いいも悪いもよう分かりませんでした。ただ、いずれは息子が戻ってきてくるだろうと信じていた。
わしは、事業というものは、長男が後を継ぐのが当たり前だと思うとるから。
勝寛氏は69年生まれの47歳。紆余曲折を経て、越智会長の友人が社長を務めていた化粧品会社で修業を積み、ダン(現・タビオ)に入社したのは97年のことだった。
経営は教えられない。3カ月で指導を放棄
帝王学? そんなものありませんわ。特に息子は教育しにくい。大体わしもそうだったけど、親父の言うことなんか聞きませんでしょ。
それでも最初はいろいろ話はしていました。でも、素人に経営を教えるのは、会ったことのない人の顔の特徴を言葉で伝えるようなもんでね。目がどんな形で、鼻がこうで、口はこうだと教えても、実感わかんでしょ。ある程度、知識と経験があれば「あの人みたいな顔や」とか例えで説明できるけど、息子はそのとき経営について何も知らんからね。
わしも丁寧に指導したつもりだけど、息子は自分がねちねちいじめられていると思って抵抗する。まあ、ただ「はい、はい」と言うことを黙って聞いとるよりは、抵抗してくれたほうが、見込みがあってええけどね。
結局、息子を教育することは2、3カ月ですっぱり諦めました。「自分の責任でしばらく好きなようにやってみろ」ってね。
越智会長が事業承継に向けて進めた準備を強いて挙げるとすれば、自分自身が懸命に働くことだったという。
今も毎日、オフィスに一番に来てまんのや。朝の6時半に家を出て、7時過ぎには会社に着く。それで仕事を始めてね。後継者には、そういう姿を見せるのが一番いい。口で言っても反発するしね。
2000年に大証2部(13年に東証に市場変更)に上場後、業績は一時的に足踏み状態が続いたものの、勝寛氏が06年から大胆な組織改革を実行。タビオへの社名変更もその一環だった。その後、収益性の改善に成功し、07年2月期には売上高100億円を突破。勝寛氏は商品本部長、取締役第一営業本部長を経て、08年5月、社長に就任する。
ダンからタビオに社名を変えたのは、息子に経営者としての覚悟させるためでもありました。ダンはわしが作った会社。これからは息子が会社をつくっていかなあかん。「責任を持ってやるためにも、おまえが好きな名前をつけよ」と言ったんです。
社長交代のときの言葉? 特にありませんわ。「もうおまえが社長やれよ」と言って終わり。親子やもん。それで十分でしょう。「うちは代々が初代だぞ。お父さんのまねはすなよ。自分の好きなようにせい」ぐらいは付け加えたかな。
最後の靴下かもしれない。 だから妥協しない
息子にはまだ満足はしていないけど、真面目に懸命にやっておったら、それでええと思う。会社に何かあっても、何とかしよるでしょ。わし程度の頭でも潰さないでこられたんだから。心配はしていません。会長になった今は好きな商品づくりに没頭しています。60歳過ぎて自分が靴下を本当に好きだってことに気付いたんですわ。
今でも油断したら靴下のことを考えているからね。花見に行っても「この桜、ええ色やなあ。うちの靴下に再現できんかなあ」とかね。靴下づくりには、若いときから真剣やったけど、いまはもっと努力していますよ。「会長が〝最後につくった靴下〞はいまいちやったなあ」なんて社員に言われたらかないませんから。

1955年 丁稚時代。菜っ葉服と丁稚スリッパ(布製の運動靴の先だけを残したもの)で通勤電車に乗るのが恥ずかしかった頃(写真中央)

1968年3月 同僚と3人で靴下問屋を創業。創業資金は13万円、事務所は2畳と6畳、2間のアパートだった(写真右)
タビオの歩み
1968年 3月 「ダンソックス」の商号で靴下卸売業を創始
1977年 3月 「ダン」設立
1982年 9月 三宮(神戸市)に直営1号店開店
2000年 10月 大阪証券取引所市場第2部(13年に東京証券取引所に市場変更)に上場
2006年 9月 社名を「ダン」から「タビオ」に変更
2008年 5月 越智勝寛氏が社長に就任

タビオは日本国内の他、ロンドン、パリで4店舗を展開。履き心地とデザイン性が高い評価を得ている

社長で長男の勝寛氏と。勝寛氏は06年から組織改革
を断行したが、事前に越智会長の了解は得ていなかったという

おち なおまさ
1939年愛媛県生まれ。55年に中学校を卒業後、大阪のキング靴下鈴鹿商店に入社。68年に独立し靴下の卸売りを始める。82年に小売りに進出し、84年にフランチャイズチェーン展開を開始。2000年10月に大証2部に上場。08年5月から会長。
※『日経トップリーダー』2011年7月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成
著者:日経BPコンサルティング