公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方
世襲は中小企業の王道 5年かけて社長業を教え込む
2017.03.21
著者:荻島 央江
日能研関東 小嶋 勇 会長
60歳のとき、5年後に社長を退くことを周囲に宣言。
引退までの5年間、息子を立派な後継者にすべく入念に準備を進めた。
会長に退いた後は経営に一切口出しせず、息子の姿を温かく見守る。

「自分との約束を守る」というのが小嶋会長が最も大事にしている信条。創業から3年間は休みをとらない、40歳になるまでは新車に乗らない、50歳になるまでは家を建てない──。そして65歳になったら社長引退を有言実行した
「65歳になったら社長を引退します」と書いた年賀状3000枚を関係者の皆さんに送ったのが60歳のとき。その宣言通り、65歳の誕生日を迎えた2006年6月26日、創業から40年、手塩にかけて育ててきた日能研関東のトップの座を長男の小嶋隆にきれいさっぱり譲って、代表権のない会長に退きました。
なぜ、そんな手の込んだことをしたのかって?答えは簡単で、こうでもしないと辞められないと思ったから。
日本全国に146教室を開設する中学受験予備校大手、日能研グループ。日能研、日能研関東、日能研関西、日能研九州、日能研東海の5社から成り、開成や麻布などの超難関校をはじめ、毎年2万人以上の合格者を輩出する。
小嶋勇会長は4年間の会社員生活を経て1968年、横浜市で日能研関東の前身である「日吉英数学園」を創業。その後、日能研グループを創業者である故・高木知巳氏とともに立ち上げ、中学受験予備校のトップブランドへと成長させた。
創業者が社長の座を降りるには相当の決心が要る。会社は命そのものだし、「家族より大事」と思っている経営者も多いんじゃないかな。それぐらい思い入れがあるから、簡単には退けないんだよ。
それに、正直に言って、社長ほど気持ちのいい商売はない。責任は重いよ。けど、会社に行けば「社長、社長」と、社員や取引先から頼りにされるじゃない。辞めちゃえば、ただのじじいだからね。
でも一方で、辞めないといつかいろいろと支障が生じることも自分で分かっている。いつまでも元気なわけじゃないしさ。そこまで考えて年賀状を送って自分で逃げ道を塞いだわけ。
経営者として息子との違い?流行の言葉で言えば、自分は肉食系で、息子は草食系。子供の頃はどちらかと言えばおとなしかったかな。社長業で忙しかったから、あまりかまってあげられなかったけど、それでも、挨拶の大事さだけは昔から口うるさく言った。
「おはよう」「ごめんなさい」「ありがとう」──。この3つはできるまでやらせた。
付属校に入学させてのびのび過ごさせる
ただ、何が何でも一流大学に入れようとは思わなかった。受験塾を経営していてこんなことを言うと矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、今でも、特に自営業の親御さんには「子供を無理に一流大学へ進学させる必要はない。子供のレベルにあった私学の大学までエスカレーター式で行ける学校に入れるといい」と話している。
実際、そのほうが社会に出たとき、よほど有利に働く。背伸びした環境でくすぶっていると、性格だってひねくれる。だったらワンランク下でいいから、のびのび育ったほうがいい。
付属校を薦めるのは、3年ごとに受験していると好きなことができないからでもある。大学まで受験なしで行ける学校なら、何か1つのことに打ち込む余裕が出てくる。人間としての幅が広がるし、いい友人に巡り合えると思う。本当の友なんていうのは多感な中学、高校生のときにしかつくれないものなんじゃないかな。
これはすべて自分の経験から話していること。自分は柔道を学生時代にやっていたけど、健康や人間関係、物の考え方とか、人生の土台は柔道を通じて形づくられた部分も多いと思う。だから息子も同じように中学から私学に入れた。
息子には後を継げと言ったことは一度もない。ただ、「好きでサラリーマンをやっているならいいよ。でも、給料は決まっている。自分で会社をやって頑張れば、その倍か3倍は取れる。継ぐも継がないもおまえの自由だけど、よく考えろよ」とは言ったかな。
隆氏は大学卒業後、富士銀行(現みずほ銀行)に4年間勤務した後、96年日能研関東に入社、取締役副社長に就任する。その後、三和総合研究所(現三菱UFJリサーチ&コンサルティング)への出向を経て、社長の座に就いた。
息子が大学を出て、会社を継ぐと言い出したとき、すぐに入社させることも考えたよ。でも、社長の息子だと周囲からちやほやされるのは目に見えている。だから、あえて苦労させることにしたんだ。将来的には社長になるにしても、現場の人間の気持ちは絶対に味わっておくべきだと思う。理不尽なことを言われても頭を下げなきゃなんない、とかね。
副社長と呼ばれない限り返事はするな
入社して最初の1年は、北海道から九州まで全国の教室を回らせた。生徒数が伸びている教室、減っている教室、横ばいの教室 ……。各教室がなぜそうなっているのか、教室の雰囲気や対応についてのレポートをつくらせた。
その後、1年の全国行脚を終え会社に戻ったときに一気に副社長にした。後継者をすぐに幹部にすべきか、しばらく平社員として仕事をさせるべきかについては意見が分かれるところだろうけど、うちの場合は、幹部の多くは息子が小さいときから知っていて、隆くんと呼んで可愛がってくれていたから。それ自体は悪いことではないけど、そのままではリーダーとしての自覚が身につかないと思ったんだ。
そこで早めに彼を副社長にして、「副社長と呼ばれない限り、返事はするな」と言い渡した。立場が人をつくるとはよく言ったもので、息子は少しずつ経営者らしくなっていったと思う。
引退を決めてからの5年間は、どこへ行くにも息子を連れて歩いたな。社長交代で大事なのは、「自分の人脈を後継者にどれだけ引き渡せるかということ」だと思う。相手に「あれ?親父より息子のほうが案外いいかもしれないな」と思ってもらったら、事業承継はほぼ成功したと言っていい。
この時期に息子に繰り返し言ったのは、「自分の代になったら好きにやればいいんだから、おれが社長の間は逆らうな」ということ。
というのも、二頭政治は、会社がつまずくきっかけになりかねない。社員はどっちについたほうがいいかなとか余計なことを考え始めるし、企業はどんな時期でも絶対的な意思統一が必要だと思うよ。
昔から世襲の是非についてはいろいろな議論があるけど、自分は「後継者になり得る子供がいるんだから、一度やらせてみたい」と思ったから素直にそうした。
中小企業のトップにとって一番重要なことは、結局、社員に「こいつのために、いろいろ不満はないわけじゃないけど、まあ、頑張るか」と思ってもらえるかどうかにある、と思うんだよね。
社員に事業を渡すとなると、どうしても他の社員からひがみや妬みが出る。「どうしてあいつが社長になれておれはなれないんだ」とか「おれのほうが年長なのに」とかね。「こいつのために ……」という 気持ちがなかなか生まれにくい。
その点、創業者の背中を一番近くで見てきた息子が継ぐのであれば、社員にしてもある程度の納得性がある。
実印のバトンタッチ 今日から自由にやれ
社長交代の当日、新社長になる息子を部屋に呼んで会社の実印を渡した後、こう話したんだ。
「これで今日からおまえがこの会社の社長だ。おまえがこの実印でどういう経営をやろうと勝手だ。会社を倍にしようが、借金に苦しんでのたうちまわろうが、もうその頃におれはいないから、自由にやりなさい。ただし、おれのまねはするな。親父と同じことだけしていては認めてもらえない。新しいことをやって成功すれば、みんなが『この人、なかなかやるな』と思ってくれる」
格好いいことを言っても、やっぱり親は親、子は子だね。横で見ていて「頼りない」「心配だ」と思うことは一向に減らない。でも、「自由にやれ」って言った手前、見守るしかないよね。言いたいことはたくさんあるし、怒鳴りたくなるときもあるけど、それをしてしまえば辞めた意味がないからね。
日能研関東の歩み
1968年 日吉英数学園を創業
1973年 日吉能率進学教室に社名変更
1995年 日能研関東予備校に社名変更
2002年 グループ総売上高100億円突破
2006年 小嶋隆氏が社長に就任、父の勇氏は会長に

1973年 小嶋会長26歳のとき、横浜・日吉の自宅で学習塾を始める。創業から6年後、日吉能率進学教室に社名変更した

1975年頃 幼少時の隆氏と。「子供たちと遊ぶ時間はなかったが、女房がいつも『パパはあなたたちを食べさせるために頑張ってお仕事をしているのよ』と話して聞かせてくれていた」

2006年 社長退任と新社長就任を知らせる挨拶状。バトンを手渡す新旧2人の社長の腕をアップで大きくあしらった。隆氏は1968年生まれ

こじま・いさむ
1941年神奈川県生まれ。64年法政大学工学部建築学科卒業後、建設会社に4年勤務した後、退社。68年に日吉英数学園を創業。今や中学受験予備校のトップブランドとなった日能研グループを創業者である故・高木知巳氏とともに立ち上げ、40年間で急成長させた。2006年から現職
※『日経トップリーダー』2011年11月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成
写真:菊池一郎
著者:荻島 央江