公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方
口うるさく言う必要はない 後継者が自分で考える環境を シヤチハタ 舟橋会長
2017.05.22
著者:荻島 央江

舟橋会長は社長に就任するまで営業から生産企画、広告、デザインなどあらゆることを経験。「親父にあれこれこれやれと言われたことはありません。自由にやらせてもらいました。『ようカネを使うなあ』とは言われましたけど」 写真:堀 勝志古
画期的商品を生み出し続け、業界ナンバーワンの座を譲らない老舗メーカー。 先代の子育て、後継者育成哲学は口うるさく言わないこと。 すべてを教えずに、自分で考えさせ、行動させれば強い後継者に育つ。
「世の中のためにゼロから新しい製品を創る」というのがシヤチハタの基本姿勢です。 その方針通り、固定観念を打ち破る「インクの乾かないスタンプ台」を作り、次に「スタンプ台の要らないハンコ」を開発しました。お客様の暮らしがより便利になるよう、現状に満足せず新しいものを生み出していこうという精神は創業以来、脈々と受け継がれていると思います。
それを息子にしっかり受け渡すのが私のこれからの役目でしょう。
シヤチハタは印鑑やスタンプ台などを手掛ける創業90余年の老舗メーカー。1925年、舟橋紳吉郎会長の父、高次(たかじ)氏とその兄の金造氏が名古屋市で創業した「舟橋商会」がその原点だ。「萬年スタンプ台」の製造・販売で事業をスタート。商品開発を高次氏が、営業を金造氏が担当した。
当時、スタンプ台のインクはすぐに乾いてしまうため、使うたびにスタンプ台にインクをしみ込ませる必要があった。その点、「萬年スタンプ台」はインクを補充せずに連続して使えるという画期的な商品だった。
舟橋会長は36年生まれ。働く父の背中を間近に見て育つ。
私が中学生、高校生の頃、シヤチハタはどこにでもある中小企業でした。親父は職人気質で、ものづくりへの意識や情熱は人一倍。しょっちゅう夜中の 1時、2時までインクの研究なんかをやっていましたよ。
ただその頃、私はシヤチハタに入ろうと全く思っていませんでした。次男坊で、当時私には「外交官になりたい」という夢があったからです。でも長男が亡くなるなど事情があって、シヤチハタに入社することになりました。

1925年 舟橋商会を名古屋市で創業。写真は創業当時の岩井通り営業所。現在の社名であるシヤチハタはシンボルマーク「鯱の旗」に由来する
看板商品の“否定”で 生まれたシヤチハタ印
当時、社内ではある商品の開発が進められていた。スタンプ台不要のハンコ「Xスタンパー」、通称「シヤチハタ印」だ。
「萬年スタンプ台」で社業を拡大したシヤチハタだったが、高度成長期を迎える頃、高次氏は「いずれスタンプ台は消える」と考えていた。多くの企業で事務業務が急増。作業軽減のニーズが高まっていたからだ。
ハンコをスタンプ台に押し付ける面倒を省くために、スタンプ台不要のハンコが求められるはずだ──。そんな想いが新製品開発に駆り立てた。
試行錯誤の末、構想から10年余年後の65年、ついに「Xスタンパー」が完成した。
当初は品質が一定せず、「すぐにインクが出なくなる」「色が変わる」「インクが紙ににじむ」といったクレームも少なくなかった。返品の山ができて、「このままでは会社が潰れる。生産を中止しよう」というところまで追い込まれた時期もありました。
それでも諦めず、商品の改良を重ね、次第に便利さが受け入れられ、売り上げを伸ばしていきました。まさにシヤチハタ印(登録商標)は努力の結晶だと思います。
こうしてシヤチハタは中堅企業へと成長。そして77年、舟橋会長が40歳のとき、高次氏から社長の座を引き継ぐ。商品の海外生産や販売、パソコン上で書類に押印できる電子印鑑システムを開発し、事業をさらに拡大。それに伴い、今度は舟橋会長自身が後継者を育てる立場になっていった。

1965年 ハンコとインクを一体化させたインク内蔵のハンコ「Xスタンパー」を発売。写真はネーム印の仕上げライン
母親の存在抜きに後継者教育はできない
どうしたらいい後継者が育つのか。やはり母親の教育が大事でしょう。子供と一番多く接するのは母親ですから。母親がどう子供を育てるかが大きく作用する気がします。私の母親の場合、あれこれ口うるさく言わなかった分、私は自然にやる気になれた気がします。
その点、うちの場合、私は社長業が忙しくほとんど家にいませんでしたが、家内が息子をしっかり育ててくれました。私が頼んだわけではないですが、家内は「いつかシヤチハタの後継者になる人間を自分が育てている」という意識を十分持っていたと思います。他の家庭と比べると、厳しく育てたほうじゃないですかね。金銭感覚なども家内がしつけていました。
実際、舟橋会長の長男、現社長である正剛(まさよし)氏は大学時代、風呂なしで家賃2万3000円のアパートに住んでいた。また、自分でアルバイトをして貯めたお金でハワイに行くまで、海外に行ったこともなかった。
では父親である私は何をしていたかと言えば、どちらかと言えば息子をなだめる側でした。息子によく話したのは、「目を見ればその人が分かる。相手の目を見て話しなさい」ということぐらいでしょうか。「会社を継げ」と言ったことは一度もありません。
1つだけ強く進言したのは、大学卒業後の進路でした。「大学時代の4年間、東京で遊んでいたから、得たことは少ないだろう。ぜひアメリカに行きなさい」と留学させたのです。
真剣に勉強させるのが目的です。ロサンゼルスやニュージャージーに当社の工場があり、私は米国には頻繁に出張していましたから、向こうではしっかりやらないと卒業できないと知っていた。会社に入る前にひと苦労させるのに、ちょうどいいと思ったんです。
正剛氏は米国の大学へ留学。92年に修士課程を修了、MBA(経営学修士)を取得した。
MBAを取得するのは大変だったようですよ。私もよく会社の資料や一般的なデータ、私が読んだ本のコピーなんかを何十枚とファクスで送ったものです。いくら机上で理論を学んでも、現実のマネジメントはよく分からない。そういう意味では、私という実地で経営している人間が身近にいるわけですから、そこから何かを学びとろうとしたのでしょう。

2006年 舟橋正剛氏(右)が社長に就任、紳吉郎氏は会長に。正剛氏は65年生まれ
文具業界の激変を自分の目でしっかと見よ
帰国した正剛氏は、広告代理店の電通を経て97年、シヤチハタに入社する。多忙な日々を送り、「まだこちらで頑張りたい」という息子を呼び寄せたのは舟橋会長自身だ。
当時、文具業界は商流が大きく変わる激動の時代を迎えていた。総合スーパーなど量販店が躍進して売り先として大きな位置を占めるようになり、また「アスクル」などの通信販売も登場する。
このときははっきり言いました。今後、この業界でやっていくつもりならば、渦中に身を置いて、その変化を自分自身の目で見たほうがいい、と。
あれこれ口出ししては、自分の頭で考えなくなる。だから息子が考え悩み成長する環境を与えることが大事、というのが舟橋流後継者育成術だ。
そして正剛氏は入社9年後の2006年、父の後を継ぎ、社長に就任した。
経営者なら結果を出すこと。どんな立派なことを言っても、利益を出さないと、社員はついて来ないし、信用してくれない。
だから息子には「とにかく実績を残せ。そのために、これまでシヤチハタがそうであったように、新しい製品を生み出せ」とハッパをかけています。
シヤチハタの売上高は約191億円(16年3月期連結ベース)。印鑑市場において圧倒的なシェアを誇るが、舟橋会長は強い危機感を持つ。
ハンコの需要は年々減っています。過去のブランドの価値はいつまでも続かない。当社はインクやゴムの素材メーカーであり、ハンコ屋ではないという認識を強く持たないといけない。現状維持では、経営は面白くありません。息子もそれは分かっているはずですだから、口出しはしないつもりです。何事も自分で考えて行動しない限り、成長しない。経営も同じです。
シヤチハタの歩み
1925年 舟橋商会を創業。「萬年スタンプ台」を開発、発売
1941年 舟橋商会を改組し、シヤチハタ工業を設立
1965年 浸透印「Xスタンパー」発売
1995年 電子印鑑システム「パソコン決裁」発売
1999年 シヤチハタに社名変更

2016年 発売から約50年、累計で1億7000万本の売り上げを誇る「シヤチハタ印」

ふなはし・しんきちろう
1936年名古屋市生まれ。シヤチハタ創業者・舟橋高次氏の次男として生まれる。60年、明治大学卒業後、シヤチハタ工業(現・シヤチハタ)に入社。77年に社長就任。2006年、長男の正剛氏に社長を譲り、会長に 写真:堀 勝志古
※『日経トップリーダー』2012年2月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成
著者:荻島 央江