公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方

修業の回り道は要らない 力がある息子には早く任せる

2017.06.19

著者:荻島 央江

本多プラス 本多 克弘 会長

トヨタ自動車の下請けになることを拒んだプラスチック加工メーカー。
他人(ひと)のやらないことをやる。仕事はもらうものではなく取るものである──。
「自立」を唱える経営理念のみを息子に託し、経営の全権を委ねる。

孝充氏には仕事を任せ、干渉しなかったという本多会長。「自分自身、父を早くに亡くしたこともあり、誰から押さえ付けられることなく、自由にやってきた。息子にも自分の思う通りにやってほしい」  写真:堀 勝志古

 2011年12月21日、長男の本多孝充が3代目社長に就任し、僕は会長になりました。
 とは言え、01年に息子を代表権のある専務に就かせたときに、既に経営の全権を託していたので、これまでと特段何が変わったわけではありません。早くにバトンを渡し、あまり干渉しなかったのが良かったと思っています。

 本多克弘会長は1938年に台湾で生まれ、終戦後、父・正造氏の郷里、愛知県新城市に家族と共に戻る。46年、父が本多セロファン工業所(本多プラスの前身)を創業。当初は、セロファン製の筆用キャップが主力製品だった。65年、父の死に伴い、本多会長が26歳で社長に就任。本多会長は男ばかり4人兄弟の末っ子だったが、兄たちは既に別の道を歩んでいたため、本多会長が後を継ぐことになった。
 本多会長は製造工程の機械化を進めた。プラスチックの中に圧縮空気を流し込む「ブロー成形」の技術を磨き、筆用キャップ以外の分野にも進出。83年には日本で初めて、ナイロン製の修正液ボトルを開発する。それまで修正液の容器はガラス製で使いにくかったため、本多プラスのナイロン製容器は一気に普及し、今なお、市場で圧倒的なシェアを誇る。
 成形技術の高さから、トヨタ系列の下請けにならないかと誘われたこともあるが、本多会長はそれを頑として拒絶。自分で考え、自分で作り、自分で売ることにこだわった。
 そんな会社をさらに躍進させたのが孝充氏だ。97年に入社すると、文具向けが売り上げの大半を占めていることに危機感を覚え、医療や工具、雑貨、化粧品向けに事業を広げてきた。

1965年 本多会長が事業を継承し、筆用キャップの生産を機械化するため、独自に研究を始めた頃

3歳までは厳しく育て、 「怖い親父」を刷り込む

 僕は息子が3歳になるまでは厳しくしつけましたが、そこから先は一転して、うるさく口出しせず、本人の好きなようにさせました。
 3歳まで甘やかさなかったのは、子供にとって母親は優しく、親父は怖い存在でなければいけないと思ったから。それを幼少期にしっかり教え込んでおけば、一時的に羽目を外しても、必ず正しい道に戻ってくると考えたのです。
 息子には僕の怖さがすっかり刷り込まれたようで、中学生になる頃まで、例えば食事をするときでも、僕に叱られやしないかと怖がっていたみたいです。
 そうした教育は、僕が親父やおふくろから受けた教えをまねしただけ。自分がされて良かったことを息子にもしてきました。親父がしてくれたことでよく覚えているのは、学校から帰ってくると、「今日は何か面白いことがあったか」「感動することはあったか」と、毎日のように聞かれたことです。
 だから僕も息子に同じように聞きました。「特にない」と息子が言えば、「周りの人を面白がらせるとか、感動させるとか何かやってこいよ」とよくけしかけた。そうすることで豊かな感性が育まれていくんですね。
 自由に育てたせいか、息子は高校生になると全く勉強しなくなり、ロックバンドの活動に夢中になった。「ミュージシャンになりたい」と言い出したほどです。
 髪を逆立てメークをする息子の姿を見て、女房は「可愛かったあの子が、どうしてあんなふうになっちゃったのかしら」とよく泣いていました。その度に僕は、「男として正常な証拠だよ。誰にだって反抗期はある。自分もそうだった」となだめたものです。

ミュージシャン志望から理想の息子に変わった

 孝充氏は高校卒業後、産能短期大学(現・自由が丘産能短期大学)へ進む。卒業後の96年、英国アングリアラスキン大学でMBA (経営学修士)を取得した。97年に本多プラスに入社、取締役経営企画室長兼営業本部長に就任する。

 息子は、高校を卒業してから徐々に変わり始めました。良かったと思うのは、産能短大の後継者育成コースに進んだこと。僕自身は普通の大学に行ったけど、 さほど役に立ったわけではないから、経営のことを早く学んでほしいと思って息子に勧めました。
 そこを卒業すると、息子は自分から「MBAを取りたい」と言い出し、英国に3年ほど行きました。日本人の学生とは一切付き合わず、相当勉強したようです。久しぶりに会ったときにはやせ細っていて、「勉強がこんなに面白いものだとは思わなかった。夢中で勉強していて気付くと、夜中の2、3時なんだ」と話していました。
 そこまで必死に頑張っていたから、「MBA を取ったらポルシェを買っていいか」と聞かれたときは、「いいよ」と答えました。人間は、明確で具体的な目標があるからこそ踏ん張れるものです。約束通りMBAの取得祝いに、中古のポルシェを買ってあげました。実は、僕自身が大の車好きでね。息子の保育園の送り迎えもスポーツカーで行っていたぐらいです。息子が車好きになったのも、親の影響でしょうね。
 でも、僕がスポーツカーに乗るのには理由があるんですよ。昔は宅配便なんてなかったから、新城の工場から離れた取引先に急いで品物を届けたいとき、より早く、より安全に、より快適に走れるのがスポーツカーだったんです。

理論が分かっている分、力量は息子が一枚上

 あるとき、「事例研究で本多プラスを取り上げるので会社の資料が欲しい」と言うので送ったら、「なんだこりゃ。自己資本比率が低くて、借金まみれで潰れそうなじゃないか」って息子に指摘され、頭にきたことがありました。
 でも、息子が留学から帰ってきていろいろ話をしたとき、「経営者として僕よりうわてだな」と思った。僕が経営者として経験を重ね、この年になってやっと分かったことを、息子は既に知識として持ち、事例もたくさん知っている。僕が考えに考えて出した答えも、息子はぽんとすぐに出してくる。
 これだけ理論がばっちり頭に入っているなら、あとは経験を積ませるだけ。だから入社してすぐ新分野の開拓など大きな仕事を任せたんです。後継者をよその会社に修業に出したり、会社に入れても現場からやらせたりというのは必ずしも正解じゃないと思う。
 現場でどれほど大きい成果を上げようが、昇進しようが、その度に周囲から「社長の息子だから」という目で見られますから。そんなふうに扱われていたら、勉強にならないし、本人のためにも良くありません。
 だから僕は、息子をいきなり経営企画室長兼営業本部長に据えました。それだけの能力が息子にあると確信したからです。

2011年現社長の孝充氏(左)と本多会長。孝充氏は69年生まれ。10年前の専務就任時から、実質的な経営を任されている

「本多家の教え」を経営理念にまとめる

 社長交代にあたって息子にアドバイスをしたことは何もありません。唯一、僕が息子に会社を渡す前の最後の仕事として、経営理念をつくりました。これさえ読めば、今後もし息子が判断に迷ったときには、何をすべきかが分かると考えたからです。「他人(ひと)のやらないことをやる、仕事はもらうものではなく取るものである。取るものではなくて創造(つくりだ)すものである」
 これが息子に託した経営理念です。ただ僕1 人で考えたものではなく、僕に対して親父やおふくろがずっと言ってきたことをまとめ た、いわば本多家の教えです。
 言われた通りにするだけの仕事では面白くありません。自分で主導権を握ってモノを作るほうが断然楽しい。だからトヨタ系列の下請けの話にも乗らなかったんです。もしそっちの道を選んでいたら、今の10倍の売り上げがあったかもしれませんが、後悔は全くありません。
 今は会長として、対外的な付き合いの一切を引き受けてやっています。僕の場合、25歳のときに親父が亡くなったので、それこそ地域の消防団から商工会議所との付き合いまで何でも全部自分でやってきました。本音では、仕事に100%専念したかった。だから、息子には社長業に集中できる環境をつくってあげたいのです。

本多プラスの歩み
1946年 本多正造氏が愛知県新城市で本多セロファン工業所を創立
1965年 本多克弘氏が社長に就任
1967年 ブロー成形による筆用キャップの生産を開始
1983年 ナイロン製修正液ボトルの量産開始
2011年 本多孝充氏が社長に就任、克弘氏は会長に

1982年 本多会長が定めた経営理念。本多プラス、本多家のDNAがここに集約されている

2017年 製品設計から金型製作、成形までの全工程を自社で担う。手掛ける製品は2万6000種類に上る

ほんだ・かつひろ
1938年台湾生まれ。法政大学卒業後、兄が創業した本多電子に入社。営業を担当していたが、父が亡くなり、65年に家業の本多工業所(現・本多プラス)の経営を26歳で引き継ぐ。プラスチックのブロー成形技術を生かして、筆用キャップや修正液ボトルなどの事業を拡大。売上高は約41億円。2011年12月、長男の孝充氏に社長を譲り、会長に就任した。
写真:堀 勝志古

※『日経トップリーダー』2012年3月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成

著者:荻島 央江