公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方
「サファリパーク的子育て」を実践 信頼関係の下、きっちり境界線を引く
2017.07.18
著者:荻島 央江
イシダ 石田 隆一 会長
世界トップクラスの計量包装機器メーカーへと育て上げた中興の祖。 自由と制約のバランスを重視する考え方で、息子を後継者に育成した。 事業承継で最も重要なのは、「後継者を信頼すること」と言い切る。

社長就任以来、一度も赤字を出さず、人員整理もしなかった石田隆一会長。「最後は哲学ですよ。絶対にぶれたらいかん。逃げたらしまいです」 写真:宮田 昌彦
僕と息子の関係は、昔から「サファリパーク的」です。好きに動いているようで、越えてはならない一線がきちんと引いてある。互いの信頼関係の下、境界線さえきちんと守っていれば、後は自由にやっていい。
こう考えるようになったきっかけは、1970年代のソ連や欧州への研修旅行でした。目にした世界は両極端。最低限の衣食住は与えられているが、自由がなく、統制されたソ連。その後に回ったパリは自由で美しい。ええ街やなあと思いました。ところが、あるバーでオレンジジュース1杯に「50ドル」とふっかけられた。
このときつくづく思いました。ソ連のような〝檻の中〞で暮らす「動物園的生活」は嫌だ。かといってパリは自由だが、放っておいたらいつ食われるかも分からず、油断も隙もあったものではない。これは、いわば「アスファルトジャングル的生活」で、弱肉強食の世界だと。
それから私は、さまざまな場面で「サファリパーク的経営」を実践してきました。子育ても同じです。
だから、息子には「ああせい」「こうせい」とか「後を継げ」「勉強しろ」と言ったことはありません。のびのびやってくれたらいいと、進路についても相談されない限り、指図しなかった。それでも息子のほうから「イシダに入りたい」と言ってきたし、米国の大学院にも自分の意思で行きましたよ。
古代の物々交換の時代から、ハカリと経済の関係は切っても切れない。江戸時代は幕府の下で厳しく統制されていたハカリの製造だが、明治時代に入り度量衡法が整備され、民間にも許される。石田隆一会長の曾祖父、音吉氏は1893年、日本初の民間ハカリメーカーとなる石田衡器(こうき) 製作所(現・イシダ)を京都市で創業した。
石田会長は1960年に同社へ入社。規制緩和でハカリの製造販売が免許制から登録制になった頃だ。新規参入が相次ぎ、イシダは大きくシェアを奪われ、危機的状況に瀕していた。この難局を営業の強化などで何とか乗り切ったものの、苦難はこれで終わらなかった。


1893年 民間で初めてハカリの製造販売が許可されたとき、事業家で京都府議会議員だった石田音吉氏が衡器製作免許を受け、石田衡器製作所(現・イシダ)を創業
祖父の葬儀の日、 父の病が発覚。余命2年
危機を脱したのも束の間、65年に会長だった祖父が亡くなり、祖父の葬儀の日に、社長である父の病気が発覚。余命2年と言い渡されました。僕は28歳。神も仏もいないのかと思いました。
石田家の長男は、朝晩の読経が日課です。読経をしながら、ふと「破滅は失敗により起こるものではない。大事なことは失敗した後どういう態度を取るかが大事なり」という、高校時代に読んだ英文の一節が頭に浮かびました。
そうか、と。親父は第2次世界大戦中、ビルマ戦線に行っていた。もしそこで死んでいたら、手も足も出なかっただろう。でも、ここまで生きていてくれた。天は自分に、事業承継のための十分な時間を与えてくれたんだ、そう思い直しました。
それからは、今後どうしたら会社をうまくやっていけるかを必死に考え抜いた。そこで行き着いたのは、人々に喜ばれ、社会に役立つ企業はどんな場合でも生き残れるはずや、ということでした。
そこで、そうした会社になるための3つの必要条件を決めました。
「最大より最良の会社たらん」を最大の目標とし、親父から教えられた「自分良し、相手良し、第三者良し」の「三方良し」を理念に据えました。これらを実現すべく、社員一人ひとりの品性を高め、社格を上げていこうと考えたのです。
当時のハカリ市場の規模は、ミクロン単位から何百トンまで全部を足しても250億円程度。イシダの事業の範疇を考えると、もっと狭い。となると、どれだけ逆立ちしても何百億円にはならない。だったら規模拡大をいたずらに志向せず、技術に磨きをかけてシェアを上げる。身の丈に合った経営をしていくことにしたのです。
父は医師の宣告どおり、2年後に亡くなりました。ただ、このとき経営における基本姿勢が定まったおかげで、ハカリのデジタル化への技術革新が実現できたし、大手弱電メーカーとの激烈な競争を乗り切れたのだと思います。
石田会長が社長に就任した当時は8億円程度だった売上高も、2011年3月期連結ベースで710億円に成長。グループ従業員数は約2700人、世界80カ国以上で事業を展開する世界トップクラスの計量包装機器メーカーになった。

1972年 ピーマンの袋詰め作業の効率化を機に、重量や形状にバラツキがあっても定量計量できる「コンピュータスケール」を世界で初めて開発
天に二つの太陽なし 代表権は要らない
社長就任から42年余り経った10年、石田会長は社長の座を長男の隆英氏に譲り、代表権のない会長に就いた。これは3年前から社内外に公言していた。
企業経営は駅伝です。それぞれの経営者はその区間をしっかり走って次の世代へたすきを渡す。そして、たすきを渡した後は次の走者を信頼して任せる。生涯現役というのはウソでね、倒れるまでやったらダメですよ。
社長交代をした年は、僕が社長になって42年。それだけ1人で走ったら走り過ぎ。ここがタイミングだと思いました。社長交代を公表したのは、自分に対する責任です。人に言っておけば、撤回しませんから。
「天に二つの太陽なし」と言います。二頭政治は絶対にいかん。おれがおれがといつまでもやったら、社長も周りもやりにくい。だから、僕は経営には一切口を出しません。社長交代のことは、息子にもちろん話していましたよ。そのときは、淡々としていましたね。若い頃はよく女房に「いつ譲ってくれはんのやろ」と言っとったらしいけど、だんだん(経営の)怖さを分かってきたのか、おいそれと口にはしなくなったようです。
隆英氏は1997年、米オレゴン大学で学んだ後、イシダに入社。営業や技術開発など社内の主要な部署を経験。途中、米マサチューセッツ工科大経営大学院へ留学し、MBA(経営学修士)を取得した。
息子はしっかり頑張ってくれていますよ。社会人になってからもう一度、米国で勉強してね。イシダに入ってやっていくうちに、もっと勉強しなければダメだと思ったんでしょうね。本人が自分でやりたいと言って行ったのですから、そりゃ強い。これまでで一番勉強したんじゃないですか。
息子はいい伴侶に恵まれ、子供もできて、責任感が生まれたのでしょう。米国留学にも家族一緒に行きました。息子の嫁さんは経営者の家庭で育っているので、経営者の苦労がよく分かっている。いまどき珍しく、ちゃんと亭主を立てるし、仏様も大事にする。いい嫁さんをもらったなあと思います。

任せたら口出ししない あとは頼んまっせ
事業承継成功の秘訣があるとしたら、それはもう後継者を信頼することですな。任せた以上、たとえ潰れてもそれはそれで仕方がない、そう思っています。
社長に言いたいことがあるときはサシで話します。まあ、言わんでも、本人はちゃんとやっていますわ。なかなか彼がえらいのは、愚痴も言わへんし、人の悪口も言わへんところ。女房が感心していました。だから、信頼してまんねん。あとは頼んまっせ、という気持ちです。
これから幾度も修羅場があるでしょう。でも、危機に直面することは経験値を積み上げる絶好の機会です。恐れることはありません。
勝者と敗者を分かつものは何か。それは知識や運ではなく、問題が起きたときの姿勢や態度だと思います。勝者は冷静に物事を分析し、最良の手を常に模索する人。敗者は、「あれはいかん」「これはいかん」と批判だけして、実行しない人。焦っても、あわててもいかん。勝者は常に冷静でいなければなりません。
こうしたことは社長だけでなく、社員にも朝礼などでずっと話してきました。息子はうちの女房によう言っているらしいです。「うちの社員は幸せやで、同じ話を何度も聞いて、耳が肥えとる」と。
イシダの歩み
1893年 日本初の民間ハカリメーカーとして、石田音吉氏が石田衡器製作所(現・イシダ)を創業
1967年 石田隆一氏が4代目社長に就任
1969年 業界初の電子計算ハカリ「デジタル75」を発売
1972年 世界初の「コンピュータスケール」が完成
2010年 石田隆英氏が社長に就任、隆一氏は会長に

2012年 対面で計量、値付けラベルの印刷ができるイシダの「スケールレジスター」。販売データ管理も可能だ

いしだ・りゅういち
1937年京都市生まれ。同志社大学卒業。60年、曾祖父が興した石田衡器製作所(現・イシダ)に入社。67年、先代である父の死去に伴い、30歳で社長に就任。以後、ハカリのデジタル化など時代の変化に対応し、技術革新に取り組んだほか、80年代半ばから海外展開を本格化させ、イシダを世界的な計量包装機器メーカーに育てた。2010年、長男の隆英氏に社長を譲り、会長に就任 写真:宮田 昌彦
※『日経トップリーダー』2012年5月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成
著者:荻島 央江