公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方

業績悪化とお家騒動で存続危機 うれしかった娘の決断

2018.05.21

著者:荻島 央江

ホッピービバレッジ 石渡 光一 会長

石渡会長がホッピーの品質を格段に向上させ、それが美奈氏の時代に花開いた。
「自分の代でつぶすわけにはいかない。ダメなものならしょうがないけど、ホッピーは磨けば面白い商品だから」 
写真:鈴木愛子

戦後、そして高度成長期、庶民の飲み物として愛されたホッピーだが、競合の激化と親族間の確執で会社は危機的状況に。窮地を救ったのは、とうに承継を諦めたはずの一人娘だった。

1995年、娘である石渡美奈がうちの会社で働くと言ってきたとき、僕は大反対して入社を認めませんでした。さまざまな事情で社内はがたがただったし、会社の業績も右肩下がりのひどいありさまでしたから。そんな状況に娘を巻き込んではいけないという気持ちが強かった。

それでも内心はうれしかったし、最後は入社を許しました。娘に「会社に入れ」とか「後を継げ」と言ったことはありません。
「とてもじゃないけど、有名私立校まで行かせた娘を呼び戻す価値がある会社じゃない。入れと指図したってどうせ入らないんだから、何も言わずにおこう」思っていました。

ホッピービバレッジは、麦芽を使用した麦芽発酵飲料「ホッピー」を主力製品とする製造・販売会社。「ホッピー」は発売から70年を迎える今でもミキサードリンク(アルコール飲料と割って飲む清涼飲料水)の代表的存在として広く親しまれている。

ホッピービバレッジの原点は、1905年に創業した餅菓子屋の「石渡五郎吉商店」。石渡光一会長の父である秀(ひで)氏が始めた商売だ。その後、1910年にラムネやサイダーを製造する「秀水舎」に改組した。
大正末期からノンビア(ノンアルコールビール)の研究開発を開始。「ホッピー」を発売したのは戦後間もない48年だった。当時、物資不足で質の悪いアルコールがちまたにあふれる中、本物のホップを使ったホッピーは爆発的にヒットした。
石渡会長は大学卒業後、証券会社を経て67年、父の会社に入社する。

後継者教育はなし 婿を取るつもりだった

僕がまだ幼い頃、兄が亡くなりましてね。子供心に「僕が継がなきゃいけない。お鉢が回ってきたな」と思ったものです。父親の会社に入るのは僕にとって自然なことでした。
その後、工場を赤坂から現在の東京都調布市に移転したり、ガラスメーカーと契約を結んで専用の瓶を作ったり、いろいろ工夫して会社を何とか大きくした。私が入社した頃は 1日1万5000本程度だった生産本数は81年には20万本まで増え、年商も18億円まで拡大しました。

猛烈に忙しかったから、娘を教育したのはもっぱら女房でした。これがなかなかのスパルタでね。小学校の入学と同時に絵日記を描かせたり、課題図書を読ませて読書感想文を書かせたり。娘はよく泣きながらピアノの練習をしていたな。娘も強情なところがあるから、どんなに厳しく指導されてもピアノをやめなかった。

僕は何も言わず、いつも娘を慰める側。一人娘ですからかわいがったね。社業の合間を縫って、大阪万博や海などいろいろなところにも連れていったし、うるさいことはあまり言わなかった。
だから、後継者教育も施した記憶はありません。娘に教えたことと言えば車の運転ぐらい。当時から「将来は婿取り商法でいこう」と考えていたし、娘自身もそう思っていたと思いますよ。

美奈氏は立教大学卒業後、大手食品メーカーに入社。父の計画通り、後継者候補となる婿を迎え 3年で結婚退職したが、半年あまりで離婚する。

親としては残念だったけど、結婚前からそういう予兆を薄々感じていたから。まあ何もかもこちらの思惑どおりにはならないよね。

競争激化で業績低迷 お家騒動で社内は分裂

数年後、美奈氏は広告代理店でのアルバイトを経て、97年ホッピービバレッジに入社する。同社では94年に規制緩和で地ビールが解禁されたのを受け、95年製造免許を取得。「赤坂ビール」などの販売に乗り出した。それを飲んだ美奈氏は「うちの会社はこんなにおいしい商品をつくれるのか」と感激。婿を取るのでなく、自分自身で経営をしようと決意したという。

ただ地ビール事業の成功とは裏腹に、当時、ホッピービバレッジの本業は長期にわたり苦戦を続けていた。80年に他社が発売した炭酸水に果汁を加えたサワーが大ヒットし、ホッピーは取って代わられた。これが低迷のきっかけだ。

こうした事態を打開すべく、設備投資と品質改善に取り組みました。85年、大手メーカーにも劣らない本格的な製造設備を導入し、大手ビール会社出身者を技術顧問として迎えました。
でも、売り上げはなかなか戻らず、1日の生産量は最盛期の20分の1まで下落。美奈が入社するきっかけとなった「地ビール」事業もいわば延命のための苦肉の策だったんです。

加えて、親族間の争いも生じていた。当時、同社の経営陣には石渡会長の親戚も参画しており、経営権などをめぐり両者が対立。社内は石渡氏派と親戚派に分裂していた。

そんな状況だから、業績が上向かないのも当然です。一時期は、売り上げは 10億円を切り、他社の清涼飲料を受託生産して食いつないでいたほど。娘が入社を言い出した時期は、そんな延命策もさしたる効果もなく、会社存続の危機に瀕していました。だから、僕は入社を猛反対したんです。

しかし、美奈氏は父を逆に説得し入社。社内は歓迎ムードとは程遠かったが、結果的にこれを機にお家騒動は鎮静化に向かう。そこで美奈氏はホッピーブランドを復活させるべく奮闘。そこで注目したのがインターネットだった。

美奈氏はウェブサイトの作成方法を習得し、自社サイトを立ち上げ、間もなくネット販売も開始。取扱店の紹介や新しい飲み方の提案なども積極的に発信し、新たなファン層の開拓につなげた。
また、派手な広告宣伝ができない分、運送会社と契約し、車体にカラフルな色調でポップなイラストを描いたラッピングトラック「ホピトラ」を街で走らせることもした。

一連の施策が功を奏し、ホッピービバレッジの売上高は右肩上がりで推移。2000年代以降の健康志向の高まりも「プリン体ゼロで低カロリー、低糖質」を特長とするホッピーの追い風になった。現在の売上高は約40億円。最悪期だった01年度と比べ約 4.5倍に到達した。

ネットで売り上げ回復 懸念を吹き飛ばす

美奈氏はある講演でこう話している。「私が父だったら、あの状況に我慢できず、『やっていられない』と飛び出していたはず。父が耐えてくれたから、技術が承継されていたから、私にバトンが回ってきた。父の頑張りに感謝しています」。

そんなふうに言っていたの?ありがたいね。でも、やっぱり会社が存続したのは娘の力が大きいと思う。最初は正直「パソコンばかりいじって、それで売り上げが増えるのか」と疑問に思っていたときもあったけど、結果としてここまで業績を回復させたんだから。きちんとした財務知識や人事管理のノウハウがないからと、経営の師匠も自分で見つけてきたしね。

娘を見ていて感心するのは、いつもいろんなアイデアを考えていること。気配りも細やかで、社員の子供にまで贈り物をあげたりして、姉のように慕われている。わが娘ながらよくやっているなあと思う。

持ち前のバイタリティーで頑張るのはいいけど、心配しているのは突っ走り過ぎなんじゃないかということ。何事もあまり急ぎ過ぎないほうがいい。人生は長いし、経営者にとって健康管理も仕事のうち。だから娘にはこんな言葉を送りたい。
「ゆっくり歩む者が着実に遠くまで行く」。いい言葉でしょ。イタリアの格言らしいんだけど。

ホッピービバレッジの歩み

1905年 石渡秀氏が「石渡五郎吉商店」を創業。軍の御用商人として餅菓子を納める
1910年 石渡秀氏が「秀水舎」を設立。清涼飲料水やラムネ、サイダーの製造・販売を手掛ける
1948年 「秀水舎」から「コクカ飲料」へ。麦酒様清涼飲料「ホッピー」を開発
1979年 石渡光一氏が 2代目社長に就任
1995年 「コクカ飲料」から「ホッピービバレッジ」へ。地ビールの製造・販売を開始
2010年  創業 105周年。石渡美奈氏が 3代目社長に就任

1948年頃  創業者の石渡秀氏。ホップを使った本物のノンビアだから「ホッビー」、
転じて響きの良い「ホッピー」と名付けた

1970年 大阪万博へ家族で出掛けたときのスナップ。
創業者、2代目、3代目が写る貴重な1枚

2010年  創業100周年記念感謝の集いを開催。正式に社長交代を発表。
3代目の美奈氏(左)は68年生まれ

2011年  ロングセラー商品「ホッピー」と走る広告塔の「ホピトラ」。
クマのキャラクター「Mr.ホッピー」は石渡会長がモデル

いしわたり・こういち
1936年東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。証券会社勤務を経て、67年、父が創業したコクカ飲料(現・ホッピービバレッジ)に入社。79年社長就任。2010年から現職。全国清涼飲料連合会顧問も務める 写真:鈴木愛子

※『日経トップリーダー』2011年9月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成

著者:荻島 央江