公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方

人の上に立つ男に育て、「後を継ぎたい」と言うまで待つ

2018.07.09

著者:荻島 央江

玉子屋 菅原 勇継 会長

オフィス街への弁当配達に活路を見いだし、仕出し弁当業界のガリバーへと成長。そんな家業をかつては嫌がり、やがて魅力に気付いた息子。父親は英才教育を施しながら、そのときをずっと待っていた。

「毎日、昼食に自社の弁当を食べ、意見を社員に伝えるのが日課であり、自分の仕事」と話す菅原会長。玉子屋の日替わり弁当は450円、原価率は5割を超える。値ごろ感のあるこだわりの品だが、創業当初は「自分のところの弁当がまずくて、近くのそば屋に通っていた」と笑う 写真:菊池 一郎

長男の菅原勇一郎は大学卒業後、銀行、マーケティング会社を経て、1997年に玉子屋に入りました。自分から「働かせてくれ」と言ってきたんです。

常務として入社したのと同時に経営の全権を任せ、好きなようにやらせました。息子は僕よりはるかに出来がいいと思っていますから、間違いなくやってくれると確信していました。正式な社長交代は2004年ですが、実質的には入ったときから彼が社長でした。

仕出し弁当を製造・配達する玉子屋は1975年、勇一郎氏の父、菅原勇継会長が東京・大森で創業した。

当初、顧客の中心は町工場だったが、事業を始めて2年ほどたった77年頃、オフィス街に弁当を売ることを思いつく。その当時、出前と言えばそば屋くらいしかなく、配達範囲も店から半径2km程度の近場というのが常識だった。弁当を店から10km以上も離れたオフィス街に届けるという発想は斬新で、玉子屋はこの分野のパイオニアとして急成長を果たす。

菅原会長は創業時、実家の食料品店で経験を積み、豚カツ割烹店を繁盛させていた。その際、メニューの 1つだった出前用の弁当が好評だったため、宅配弁当専門の会社を作ったのがそもそものきっかけ。その後、昼間の弁当需要がありそうな丸の内や日本橋を営業エリアに事業を拡大した。

そんな玉子屋をさらに飛躍させたのが2代目社長の勇一郎氏である。「正午までに配達する」という、当たり前に見えて実は多くの同業者が徹底できていなかった「仕出し弁当屋の基本」を厳守すべく、緻密なシステムを構築。実力主義の報酬制度も導入した。

現在では、1日3000食を提供すれば「大手」と呼ばれる業界で、玉子屋は1日多いときで7万食を都心のオフィス約5000社に届けている。

その結果、勇一郎氏が入社したときに15億円だった売り上げは急増。現在、97年に始めた仕出し懐石料理「玉乃家」と合わせると、約90億円に上る。

エリートコースに乗せず 謙虚さを学ばせる

小学生の頃の息子は友達に父親が弁当屋だと話すのが恥ずかしかったようで、家業を継ぐなんて全く頭になかったと思います。

それでも僕は息子に幼少時から後継者教育をしてきました。会社を継ぐ、継がないにかかわらず、「人の上に立つに値する男」に育てたかったからです。

そのためには、息子の鼻柱を折って、挫折の場を与え、「自分はだめな男なんだ」というところからスタートさせたかった。

当時の息子は曲がったことが大嫌いな自己主張の強い子でした。それは良いことなのですが、半面、勉強がそれなりにでき、運動神経も人並み以上だったために、他人に対して少々容赦ないところもあった。包容力に欠けると、なかなか人はついてきません。商売には「おかげさまで」という精神が必要ですから謙虚でなければならない。

だから、エリートコースにはあえて乗せなかった。他の創業者のように、小学校から有名私立校に入れることはせず、その代わりではないですが、小学校2年生のときに無理やりリトルリーグに入れました。球拾いなどの下積みもさせられるだろうし、野球は相手がいないとキャッチボール1つできない団体競技です。他者を思いやることの大切さを学ぶための格好の場になると思ったんです。

息子はそれまでさほど野球に興味がなく、満足にボールを触ったこともないぐらいだったから、リトルリーグに入ったばかりの頃は当然のごとく周りからバカにされたようです。

それでも彼は負けん気が強いから逆に野球にのめり込んだ。「野球はそんなに好きじゃないけれど、何をやるにしても始めたからには途中でやめるのは負け犬だ」とでも思っていたんじゃないかな。

毎朝6時に起床して2〜3km走ったり、壁を相手に捕球を繰り返したり。放課後は近所のグラウンドで、僕も一緒に練習です。自宅の畳は擦り切れ、窓ガラスも割れた。家族旅行に行く時も、野球用具を持参するぐらいで、『巨人の星』のマンガじゃないけど、あんな世界でした。当時、息子は僕が怖くて口を利けなかったそうですから。

勇一郎氏は立教高校、立教大学で野球に打ち込み、大学4年時にはレギュラーとして活躍。神宮球場で初ヒットを打ったとき、菅原会長は柱の陰でうれし泣きしたという。
野球の世界は、半端じゃできないから。立派に育った息子の姿を見て感無量でした。野球でこれだけできれば、経営者も十分務まる。そう思いました。

自社の弁当を2年食べた

息子に会社に入れと言ったことは一度もありません。そんなこと言ったら、逆に反抗されて、出来のいい息子に別の道に進まれちゃいますよ。

息子のほうから「玉子屋は自分の一生をささげられる会社だと思ったから入社したい」って言ってきた。息子が自分で玉子屋を評価し、自分から入りたいと言い出すのを待つ。実は、事業承継ではここが大事なポイントだと僕は思います。

息子は銀行で中小企業に対する融資審査などを担当していましたが、そのとき初めて玉子屋の真価を知ったようです。いろいろな会社と比較しても、一番内容が良かったのが、玉子屋。それにシステムにしても財務にしても改良すべき点が多々見られる一方で、有り余るようなパワーがある。そこがとても魅力的に映ったと言っていました。

銀行を退職し、マーケティングの会社に移ってからもその道の勉強をしながら、息子は2年間、玉子屋の弁当を食べ続けました。客の立場でサービスの向上について考え、配達員の様子もつぶさに観察していた。

そんな息子の姿を見て、入社したらすぐに社長にしようと思っていました。「こいつだったらしばらくの間、会社の中を見れば、俺が何も言わなくたってすべてを把握できるだろう」って。

実際、入社して1カ月間、息子は毎日早朝から出社して全部署を順に見てまわり、仕事の概要だけでなく、誰が何を担当しているのかを覚えようとしていました。

従業員500人に1週間かけてボーナスを手渡すんですよ。「今回はいくら上がったよ」とか、何か言葉を添えながら。僕にはそこまでとてもやれない。

息子に言わせれば、「創業者には独特のオーラがあるからいいけど、2代目にはない。会長みたいに『俺について来い』の一言で済んだら楽だけど、そうはいかないから丁寧に社員と接するしかない」ということらしいけど。ね、僕は完全に追い越されているでしょう?

必要なことはすべて 食事の時間に教えた

会社のことで教えたことは何もないなあ。強いて言えば、一時野球部の寮に入っていたときを除いて、ずっと一緒に住んでいたから、朝昼晩顔を合わせてご飯を食べるようにしていました。

そういや、子供のときから嫁さんの選び方も教えていたな。僕自身、今の玉子屋があるのは9割、かあちゃんの力だと思っている。だから「経営者は、惚れられて結婚しなければいけない」と話して聞かせていました。ベタ惚れされていれば、どんな苦境も一緒に乗り越えてくれます。

社長としての息子は今、95点くらいじゃない。あと5点? 100点を付けてもいいんだけども、満点付けたらそこで終わっちゃうから。もう息子に言いたいことは1つもないんだけど、強いて言うなら、「飲み会をやるときは、僕も仲間に入れてほしい」ということぐらいかな。

玉子屋はゼロから大きくなったんだから、僕の経営者人生は大満足。息子も好きにやったらいい。だめになってもいいよ。それはそれでいい経験になるし、また最初からやり直せばいいんだから。

玉子屋の歩み
1975年 仕出し弁当の製造・配達を手掛ける「玉子屋」を創業
1997年 仕出し懐石料理「玉乃家」を開業
2004年 菅原勇一郎氏が社長に就任
    父の勇継氏は会長に
2008年 第2回「ハイ・サービス日本300選」を受賞

1960年代 銀行を辞め、父親が東京・大森で営んでいた食料品店を手伝う。その屋号が「玉子屋」だった

1971年頃 長男で現社長の勇一郎氏(当時2歳)と。豚カツ割烹店を始めた頃

現在、社長を務める長男の勇一郎氏は1969年生まれ

すがはら・いさつぐ
1939年茨城県生まれ。4歳のとき家族とともに満州へ移住し、戦後帰国。都立京橋商業高校卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に入行。4年間の銀行マン生活を経て、東京・大森で父親が営んでいた食料品店を手伝う。その後、豚カツ割烹店を開業、75年に仕出し弁当の玉子屋を興す。2004年から現職  写真:菊池 一郎

※『日経トップリーダー』2011年8月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成

著者:荻島 央江