公式コラム先人に学ぶ正しい継がせ方

大胆で緻密で目配りができる だから娘を後継者に選んだ

2018.10.22

著者:荻島 央江

ぎょうざの満洲 金子梅吉 会長

始まりは住宅街の一角にある小さな中華料理店だった。懸命に働く姿を見せ続けた結果、家族が一丸となり多店舗展開が実現。さらなる飛躍を目指し、自分と同じ視点を持つ娘にバトンを託す。

金子会長の趣味はマラソン。ホノルルマラソンには妻と22回連続で参加し、すべて完走。「娘は高校時代、陸上部で、その練習に付き合ったら全くついていけなかった。それが悔しくて走り始めたんです。今は同じくらいじゃない。娘と共通の趣味があるのはいいですよ」 写真:鈴木 愛子

私は本当に幸せ者で、せがれ夫婦や娘夫婦、孫までもうちの会社で働いてくれています。こんなにうれしいことはない。娘が社長で経営全般を、その兄である長男が調理教育部門、娘の夫は営業部門、長男の嫁は経理の担当です。

よく「なぜ娘を社長に据えたのか」と聞かれますが、それは私に一番性格が似ている気がしたから。商売の細かいところにまできちんと目配りできるし、今のままの会社を引き継いで、私と同じ視点でやってくれるのはやっぱり娘だなって。仕事をするのに性別は関係ないというのが私の考えなんです。 そもそも事業承継のことなんて少しも考えずに、とにかく商売が好きで、バカがつくくらい無我夢中で働いてきただけなんだよね。

埼玉・東京を中心に中華料理店チェーンを展開するぎょうざの満洲(埼玉県坂戸市)は1964年に創業。金子会長が運送会社を経て、牛乳販売店を開業。その後、27歳で埼玉県所沢市の住宅街の一角に開いた35坪ほどの中華料理店「満洲里」がその原点だ。

その後、「ぎょうざの満洲」に屋号を変え、当時珍しかった餃子を包む機械を導入。生餃子の販売も始め、安くておいしい餃子の店として評判となり、店舗数を増やす。
ぎょうざの満洲のキャッチフレーズは「3割うまい」。これには「うまい、安い、元気でうまさ3割増し」という意味と、創業以来、頑なまでに守り続ける基本方針「3割原価」を意味する。「3割原価」とは売り上げに占める商品の原材料費の割合のことで、売り上げの30%を原材料にかけるということだ。

例えば、大量仕入れなどのスケールメリットで利益が出て原材料費が下がったら、価格は高いが品質の高い国産材料に切り替えるなどして、原材料費を3割まで戻すように食材の質を見直す。

これを愚直なまでに繰り返し、商品に磨きをかけてきた。これこそがぎょうざの満洲の成長を支える原動力なのだ。


脱サラしてまず始めたのが牛乳販売店。自転車の後ろに袋をぶら下げて朝の3時頃から配達して回るんです。この商売を3年ほど続け、3店舗まで広げましたが、中華料理店に商売替えしました。牛乳配達と同時平行でやっていた時期が1年ほどあって、このときはめちゃくちゃ働いていましたね。

牛乳の配達が終わったら店に直行して、7時にはスープの火を入れる。それから夜の8時くらいまで働き通しで、365日休みなし。

実力が上回ったときが交代のタイミング

そんなふうだから子どもたちを全くかまってあげられなかった。遊びに連れて行った記憶はほとんどない。それでも子供たちは一言も不平不満を言わなかった。私が息子や娘に教えたことはあまりないけど、懸命に働く姿を見せてきたつもり。それを見るうちに自然とうちで働く気になってくれたんじゃないかな。


金子会長の長女、池野谷ひろみ氏は短大卒業後、食品商社に約4年間勤務し、結婚と同時に退職。「結婚式まで日があるなら、うちの会社を手伝え」と金子会長に言われ、 86年、ぎょうざの満洲に入社。

労務管理や情報システムといった会社員時代の経験を生かし、コンピューターによる在庫管理、受発注の経営管理システムなどを構築。会社の経営合理化に貢献した。そして 98年、金子会長が62歳、ひろみ氏が35歳のとき、社長交代をする。


事業は一番強い人が展開しないとうまくいかない。「世の中の動きを見るのはおれより娘のほうが上だな」と思うことが増えたので、代替わりをしました。

自分ではそんなに頭は古くないつもりだけど、やっぱり若い人の感覚は優れているよね。今年、大阪に初めて進出したけど、私は堅いほうばっかり、間違いのないほうばっかり選んじゃう。現実的と言えば現実的だけど、新しいイメージが不足しているよね。
私としては、自分が元気なうちに引き継げて良かったと思っています。娘は娘で自然に受け止めてくれて、「分からないことがあったら聞くから」と言うぐらいで、スムーズな世代交代でした。社長交代後は経営には一切口を出さず、すべて娘に任せています。

娘はお客様のアンケートすべてに目を通している。社員が集計して、主なコメントはまとめてくれるんだけど、それではなくお客様が書いた手書きの用紙を1枚1枚何度も読む。朝から晩まで一体何をやっているんだというぐらい繰り返し見ているよ。確かにそこに必ず答えがある。とはいえ、 1つのことを粘り強くやるその姿勢には娘ながら感心します。

街に明るさがあるかが出店のポイント

ぎょうざの満洲では、その日に製造した餃子を当日中に食べてもらうため、関東では出店エリアを餃子を製造している坂戸工場から2時間以内に配送できる場所に限定している。

ロードサイドなど郊外へは店は出さない。金子会長がオイルショック時に、郊外型の店が軒並み廃業していったことを目の当たりにして以来、景気と天気に左右されにくい駅前への出店が基本だ。

最終的な可否を決めるのは池野谷社長だが、金子会長に相談を持ちかけられることがしばしばあるという。


長いことやっていますから「ここは商売になるな」っていうのが感覚で分かるんですよね。今までの成功率は9割以上。そのせいか、よく娘から「いい出物があるから、一緒に見に行かない?」と誘われます。娘もおれの目を信用してくれているんじゃないかな。

いくら駅の目の前で良さそうでも駄目なところは駄目。いい場所というのは、今そこで商売をしている人たちが明るくて、元気なんですよ。上辺じゃなくね。お客のほうから「こんにちは」と声をかけて、やっと奥のほうから店の人間が出て来るような商店街ではうまくいかない。あくまで私の感覚で言葉では教えづらいけど、娘も一緒に行くうちに、自然と分かってきているんじゃないかな。

最近、娘は即断即決で出店を決めている。いいと思ったらその場で契約を進める電話を入れちゃう。スピードがとにかく速い。確かにそれぐらいでないと、よそに取られてしまうけど。

相応の処遇が兄弟経営成功のコツ

よく兄弟など身内で会社経営をしてうまくいかなくなるケースがありますよね。うちの場合はどうしているかというと、仕事ぶりを勘案しながら、それぞれに相応の処遇をしています。よその会社に勤めている同年代の人と比べたら、収入としてはかなり多いんじゃないかなあ。もちろんやりがい、働きがいは大事です。でもきちんと処遇することはみんなが仲良くやっていくうえでの基本。そこは私の権限で決めています。

家賃は上限 1坪2万円、既存店の売上高が前年を下回ったら翌年は出店を抑える。そんな堅実な経営で池野谷社長が引き継いで以来、売上高は年平均10%のペースで伸張、店舗数は20数店から88店まで増えた。

娘には、走り過ぎるなと言いたい。夢が大き過ぎるから少し加減してほしいよね。おれも突っ走るほうで娘のこと言えないけど。一人で頑張るのでなく、周囲を巻き込んでいく必要がある。関西での成功も見届けたいし、これからも娘を応援していくつもりです。




ぎょうざの満洲の歩み
1964年 金子梅吉氏が埼玉県所沢市に中華料理店「満洲里」を創業
1977年 屋号を「ぎょうざの満洲」とする
1998年 池野谷ひろみ氏が社長に就任、金子梅吉氏は会長に
2005年 坂戸新工場稼動
2012年 大阪・JR野田駅店を皮切りに関西へ進出

1964年 創業時の満洲里。「戦前、満州で食べた餃子がおいしかったと兄からよく聞いていたので、この名前にした」(金子会長)

2012年 社長の池野谷ひろみ氏(左)は金子会長の長女で、1962年生まれ。
マスコットの「ランちゃん」は池野谷氏がモデル

2012年 看板メニュー「ダブル餃子定食」570円(税別)。餃子の具材はすべて国産。写真は関西1号店の大阪・JR野田駅店

かねこ・うめきち
1936年群馬県生まれ。64年、27歳の時に脱サラし、埼玉県所沢市に中華料理店「満洲里」を創業。77年、屋号を「ぎょうざの満洲」とする。98年10月から現職。現在、埼玉、東京を中心に88店舗(全店直営)を展開。2012年9月、大阪に関西1号店を出店。年商は約81億円  写真:鈴木 愛子

※『日経トップリーダー』2012年12月号の特集「それでも息子に継がせたい」をもとに再構成

著者:荻島 央江